ふと蘇った思い出と教育のお話
ちょっとね、急に思い出したんです
僕が小学6年生くらいだった時のお話。*1
当時、というか今もあるでしょうけど、全国学力テスト*2ってのがあって、その本番が来る前に一度模擬試験をみんなでやってみましょうってことでやったんですね。過去問なのか先生が一から作ったオリジナル問題なのかわかりませんが…
ま、そんなとこから話を進めていきましょう~
だいたいこんな問題
僕が覚えているのは算数のとある小問題。(問題文や選択肢はうろ覚えの部分があります)
「扉を開けるとき、上から見たら扉はどの部分を通過してるでしょう?下の4つからえらびましょう」
斜線部で、扉が通過した部分を示しました。ありゃ、随分汚い手書きですね、「ら」ってこんな形でしたっけ、誰か教えてください。あと扉って厚みもありますからね、なんだか変な問題のようにも思えますがまあめっちゃ薄い扉ってことにしときましょう。
当時の僕は、即答で③番、いやもう易しいのなんの、中学受験ならこれの面積を求める問題だって簡単すぎて出やしないぜハナホジ、って感じでしたが、周りはそうでもなく、①番か②番を選んだ子が多かったようでした。
なるほど、考えてみればたしかに、扉の動きなんて上から確認することは普通ありませんから、想像するのは難しいでしょう。小学6年生当時身長が167cmもあったらしい大谷翔平ですら、上から扉をのぞき込むなんてことはしなかったでしょう。
あるいは…扉を開けたらたらいが落ちてくるセットを自作するようないたずらっ子であれば、扉の動きを確認したことがあるかもしれないでしょうけど、そんなことをするような子は扉の軌跡なんて考えもしないよ、という詭弁を弄しておきましょう。詭弁ですよ。
教えるって難しいね
今考えてみれば、なかなかよくできた問題です。ある人にとっては当然のようなことでも、多くの人が間違えてしまう…「扉」と表現したあたりも秀逸だったのかもしれません。この問題を小学生に解説するとしたら、どうやって教えるんだろう??という興味も湧いてきます。こう教えたらいいと思いますってのがあれば気軽にコメントください。
塾講とか家庭教師やってる方はいらっしゃると思いますが、そういう人も含めて、教える仕事をしている人はほんとにすごいなと思うわけです。理解度には個人差があるし、理解してもらうために多少嘘をつくこともあるでしょう。教える側には随分、経験や能力が必要だなと感じるわけです。
とくに、自分にとってほとんど当たり前としか思えないことなら、教えるというのはなかなか難しい気もします。たとえ、わからない人がいる、と理解したとしても、教え方についてはやはり経験なり能力が必要でしょう。
大学の授業が分かりにくい!っていう意見を聞くこともありますね。それに対して、大学の教授は教えるプロじゃないから当たり前じゃないかという反論もよく目にします。わかりやすく教えて当たり前みたいな風潮は、なかなか気がかりなものです。まあ、そういうことを理解できるってのも当たり前じゃないんですけどね…あれれ、何の話でしたっけ??
「わからない」を排斥しない
もう題名通りなんですが、わからないことを理由に非難することはよくないことでしょう。僕自身もよく心にとどめておく必要があると思ってます。まあ場合によることもあるのかもしれませんがその議論はとりあえずここではしないこととして…
教えるってなったときに、教えること自体は難しいかもしれないですが、わからない人を排斥しない姿勢はわりと多くの人が実践できるんじゃないかって勝手に思ったりしてます。馬鹿にせずに教えてくれる、と学習者が思えるような環境なら、きっと良いことがあるんじゃないでしょうかねぇシジミジルズル~*3
感想
実はどんな結論の文になるのかとか全く考えずに、思い出からぶわ~っと流れるように書き連ねてきました、ふう。
大概の問題は、哲学だの物理学だの心理学だの教育学だの経済学だの…とにかくどこかで解決していることが多いでしょうから、ここで書いたことについても、おそらくどこかに、より正しい結論が書かれているのでしょう。
でも、僕のブログは、副題の通り「おつまみ」程度に読まれることを想定していますから、硬い文章なんて書きませんヨ。これからも気軽にふと思ったことを書いていく…と思います。ばいばい